聖火が消えるとき
おかげさまでアクセス数が順調に伸びてます。ありがたいことです。
更新ペースがあまりよろしくないのは元々不精なものでご容赦願いたい。
トリノオリンピックが閉幕しました。
開会式でのルカ・バドエル+F2005デモランにも度肝を抜かれましたが、
先日の閉会式の演出もいかにもイタリア流。
本当にイタリア人はエンターテインメントの造詣が深くて豊かですね。
コミカルとシリアス、静と動、その緩急の巧みさには感心しました。
光と火の視覚的演出をさらに彩る変幻自在の音楽。
この陽気な国に緩やかなワルツがこんなに合うとは新たな発見でした。
オリンピックは「平和の祭典」なんて呼ばれます。
閉会式でも平和を象徴するパフォーマンスに溢れていました。
300人以上の花嫁達が鳩を描き出すマスゲームは感動的でした。
世界各国が参加し平和を喜び、誓い合う空間は限りなくピースフルです。
しかし残念なことに、この平和は閉鎖的な空間でしかありません。
トリノ市の青空で、聖火が平和の象徴という任務を全うしているときにも、
どこかでは同じくらい青い空をミサイルが飛び交っていたかもしれません。
聖火として生まれることが出来なかった炎が街を焼いていたかもしれません。
人間は太古から聖火を絶やさないとともに、戦火もまた消すことができません。
もちろん、オリンピックによって平和を尊重する精神は拡大しているでしょう。
しかし「オリンピックが始まるから戦争を止める」と言った国があったでしょうか。
むしろ「戦争によりオリンピックに出場出来ない」ことの方が現実でした。
オリンピックは「平和の祭典」として長い歴史を誇っていても、
悲しい事に未だに平和の「象徴」でしかありません。
オリンピックに限らず、スポーツというものはルールの下で競い合うものです。
ルールの下で勝敗を争うからこそ、そこにドラマが生まれ感動が生まれます。
競い合い、相手を打ち負かすというのは人間の本能であると思います。
しかしルールを取っ払い、相手に勝利することだけに特化すると当然、
もはやスポーツではなくなります。その先には闘争があると思います。
かなり極論ではありますが、スポーツが人間の競争本能を源とするならば、
その延長線の果てには戦争というカードが一枚あるだけだと思います。
人間は平和を願いオリンピックを開催し続け、競い合います。
その競争する本能自体が戦火の引き金であるということは皮肉な話です。
人間は生前悪でしかないのでしょうか。
なんてことを考えながら、トリノ市の聖火が消えるのを見ていました。
でもオリンピックは素晴らしくて、やっぱり競争は悪いことばかりではないです。
人間がもうちょっと賢くなって、スポーツで留めておけばいいんですよね。
それまで「平和の祭典」には、もうひと踏ん張りしてもらいたいもんです。
今日の一曲:Imagine/John Lennon
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